イタリア代表のFW。メインはセカンドトップ。攻撃的なポジションはどこでもできる。イタリアの至宝と呼ばれ皆が驚くようなプレーでゴールを決めていた選手。
今見ると凄いプレーだが驚くようなプレーでは無いように見える人もいるかもしれないが、彼のプレーを見てトッププロになった選手が無数におり結果、汎用化したように見えるのだと思っている。
個人的見解をいうとバッジォ本人が「自分が現在できるプレーで一番難しいプレーを選択している」と言っているのが本質で、トリッキーな選手では無い。
トリッキーというと意表を突くという意味だが、恐らくバッジォは意表を突くのでは無く、この言葉通りで、結果的に、誰も予想がつかない驚くようなプレーになったのだと思う。
そう決めていたからこそ迷わずプレーできたのだと思う。
ヴィチェンツァでデビューし、当時のフィオレンティーナ会長が惚れ込み獲得。しかし、入団後直ぐに右膝十字靭帯断裂の大怪我を負った。本当か嘘か分からないが膝の皿がピッチにでたという。
フィオレンティーナのクラブ、サポーター全員がサポートしたそうだ。バッジォは期待に応え活躍。1989-90シーズン、フィオレンティーナは財政難に陥り、会長は苦渋の決断でバッジョを放出。
ホームタウンのフィレンツェでは暴動が起き、会長は本人、クラブ、サポーター、誰も望まない移籍と言ったものの裏切者扱いされる。しかし、移籍先のユヴェントスとの一戦でPKを拒んだり、
投げつけられたフィオレンティーナサポーターのタオルを大事そうに持ち帰ったり誤解は解けた。
ユヴェントスでは、UAFAカップ獲得に貢献し、最後のシーズンは、怪我で控えのデルピエロの方が出場回数が多かったがエースとして活躍し9シーズンぶりの優勝に導いた。
1995-96はデルピエロの台頭によりスタメンを確約できないと言われミランに移籍、リーグ優勝に貢献したものの監督がサッキ監督になり出場機会が減り、ボローニャに移籍。
ボローニャはよく再生工場と呼ばれ、ここで良くスランプ気味の選手が復活する。バッジォも多分に漏れず復活した。
1998-99シーズンにインテルに移籍し活躍するも。翌シーズンはユヴェントス時代に冷遇されたリッピ監督に招集により、出場機会を減らしていった。
晩年は、ブレッシャで4シーズンプレーし引退した。この時、スペイン代表のグラディオラがバッジォが引退する前に一緒にプレーしたいということでバルセロナからブレッシャに加入したこともあった。
イタリア代表では、56試合、27得点。重要な試合での得点が多く勝利に貢献した選手。ワールドカップも3度出場している。
余談だが日本でもこの選手の影響は凄い。Jリーグが1993年に開幕し、サッカーブームの中、ドーハの悲劇で日本代表はワールドカップアメリカ大会に出場できず無い状態。 そんな中、ワールドカップアメリカ大会を見た人はバッジォに魅了されてセリエAを見始めた人も多いと思う。根拠の無い偏った見解だがこれが一番多いセリエAを見始めたパターンだと思っている。